初期の仏教では、快楽や欲望は執着の根源として、否定すべきもの、抑制すべきものとしてとらえられてきました。
欲望の中の愛欲も同じで、戒められるべきものとして取り扱われてきました。
愛欲におぼれたものは、邪淫の罪を背負い、衆合地獄へ落ちるとまで言われています。
そのためか、「仏教」=愛欲をつかさどる「官能」なんてとんでもない!と考えがちです。
しかし、一方で、仏教を取り巻く世界には、この「官能」が切っても切れない物語が多数存在します。
「官能仏教」は、この仏教が取り扱う「官能の世界」を3人の筆者の視点で紹介する1冊なのです。
本書に紹介されているお話をいくつか、ご紹介します。
仏教には官能的な物語が必要不可欠、ということがおわかりいただけるはず。
一つ目は、今は仏教を守護する天部のお一人になられた、聖天さま、もとい、歓喜天の物語。
多くのお寺では絶対秘仏中の秘仏なのだけれども、その歓喜天さまは象の姿をした男女が抱擁する仏さまなのです。
男女が抱擁しているというだけあって、そこにも官能的な物語が存在します。
ヒンドゥー教神だったガネーシャ、別名、ビナーヤカは、世界を手に入れようと人々に悪さをしていたといいます。
そこに現れたのが、とてもお美しい十一面観音さま。
ビナーヤカは、この観音様を抱きたいと切に願うわけです。
そこで、観音様は、仏の教えを受けることを説きます。
それを受け入れたビナーヤカ。
やさしく観音様がビナーヤカを抱きしめるお姿を、歓喜天さまのお姿として刻んでいるのです。
一体の象はビナーヤカ、一体は観音様なのです。
抱きしめた瞬間、ビナーヤカは言ったといいます。「善き哉」。
仏の教えに守られることで、ヒンドゥー教の神様は、心の安楽、一種のエクスタシーを覚えたのでしょう。
二つ目は、僧でもある義湘を追って龍となった善妙、そして、安珍を追って蛇体になった清姫を描いた二つの物語。
新羅へ帰る義湘の船をを守護するために、善妙は龍になり、安珍が新羅に帰ってからも、寺を建てる際あった妨害者を追い払ったという。
一方、清姫は、自分を裏切った怒りから、道成寺の鐘へ隠れた安珍を焼き殺してしまうという結末の物語です。
二つの物語は、結末は違えども、善妙と清姫に本当に違いはあったのだろうか、と著者は投げかけます。
男を追う女の切なる思いは同じではないか、と。
京都、高山寺に残る、義湘絵には明恵上人による詞書が添えられているそうです。
「愛心なきは法器にあらざるなり」と。
愛のない人には、仏法を理解できない、そうであるなら、善妙にも清姫にも仏法を理解し、仏になることができるのではないでしょうか。
三つめは、性愛そのものを肯定するお経、理趣経。
「大楽金剛不空真実三昧耶経(だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう)」が正式名称のお経です。
理趣経は、大般若経の理趣分と呼ばれる箇所が密教化して、独立して一つのお経となったといわれています。
欲望を「悪」とみなすことで、逆にそれに執着してしまうため、善悪などの価値観でものごとを判断してはいけない、と説いているお経です。
欲望の中でも、極端な例として取り上げられているのが、性愛についての表記なのです。
理趣経のはじめには、愛欲に関する十七の心身の働きを挙げて、それはみんな清浄であり、菩薩の境地と同じだと説かれており、これを「十七清浄句」というそうです。
「妙適」、つまり男女の交合によって生ずる快楽、恍惚の境地、これらはすべて清浄で、菩薩の境地と同じだと述べているのです。
理趣経の中で、清浄のシンボルともいえる大菩薩、金剛薩埵。
欲、触、愛、慢の菩薩たちは、この金剛薩埵から生まれたとされています。
つまり、愛欲は清浄で、菩薩そのものといことを現しています。
煩悩も、愛欲も、何もかも、生きとし生けるものすべては本当は清浄なものだと述べる理趣経により、筆者は地獄に落ちずにすむのだとも述べています。
そして、最終的に愛欲こそが、仏の悟りの境地、菩提心へ向かわせる存在そのものだと言い切るのです。
すなわち、「煩悩即菩提」です。
以前、著者の1人である愛川さんにお会いした際、いただいたサインは、「煩悩即菩提」のお言葉をいただきました。
今は、真言宗室生寺派の尼僧となられた愛川さんは、本書の中でも、「煩悩即菩提」についてのお考えを語られています。
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「煩悩即菩提」「淫欲即菩提」と、愛欲を真っ向から肯定した経典は、まさにこの世で生きるひとに向けられたものです。
欲は生きるためのエネルギーだから、欲を断てとは言わない。欲を否定しない。生きてゆくために、欲を生かそうとしているのです。
生きとし、生けるものも、仏さまも、みんな等しく、みんなひとつ、そしてみんな清浄。
だから欲を自分ひとりのためにもちいるのでなく、みんなのために欲を活かそうと説かれています。
~中略~
生きることは欲そのものです。欲を否定して切り捨てたら、生を放棄したも同じです。
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菩提への道は、煩悩から。
そして、菩提への道は、本気で生き、本気で愛し、本気で歓喜し、本気で苦しむことを示した教えなのです。
「煩悩即菩提」は、よく生きるために欲望を肯定する言葉そのものなのです。
仏教ではタブー視されていると思われている淫欲、煩悩。
一見すると、「悪」と思われがちな煩悩や淫欲ですが、それらすべてを一度肯定し、それに執着しないことでよく生きることを説いているのが仏教の教えのようです。
実は、「官能の世界」は、私たちがよく生きるために、必要不可欠なものだったのかもしれません。
そのことを仏教説話から、そして筆者自らの体験から、本書は教えてくれたのではないでしょうか。
愛川 純子 (著), 平久 りえ (著), 西山 厚 (監修)
はじめに
【仏】合一とはきっと、無敵なのだ
一. 歓喜天 抱き合う仏たち
二. 吉祥天女 愛に応える魅惑の天女
三. 弁財天女 香の秘宝
四. 降三世明王 踏む者、踏まれる者
【法】この世は美しい、人の命は甘美なものだ
五. 明恵と善妙 <清僧にみる官能の世界>
六. 慧春尼 尼僧の高徳
七. 光明皇后 湯屋の白い蒸気のなかで
八. 尼と摩羅 説話から聞こえたる尼たちの声
九. 僧と稚児 聖なるものとの交流
十. おっぱい 母と子の絆
【僧】愛欲だけは捨てられない
十一.聖なる白象 仏と象の七つの蓮華
十二.地獄絵 官能と苦悶の情景
十三.愛染王法 秘部を射る鏑矢
十四.理趣経 愛の経典
おわりに その一
おわりに その二
主な参考文献