西東京、東村山市に東京都唯一の国宝建造物に指定されているお堂があります。
金剛山正福寺地蔵堂です。
金剛山正福寺は鎌倉の建長寺末寺に属する臨済宗のお寺です。
開基は鎌倉時代と伝わりますが、その縁起はとても謎に包まれ、奈良時代までさかのぼります。
正福寺の本尊、延命地蔵菩薩は河内国春日の郷の仏師である稽文会(けいもんえ)、稽主勲(けいしゅくん)兄弟により生み出されたと言い伝えられています。
稽文会、稽主勲兄弟は、かの有名な大和国の長谷寺の観音像を造立したとして有名な仏師。
二人は、観音さま、地蔵菩薩さまの化人であるとも言い伝えもあるそう。
言い伝えとはいえ、奈良の長谷寺の観音さまは、右手に錫杖を持ち合わせている姿から、お地蔵さんと観音さまが合体した観音さまと言われています。
金剛山正福寺の本堂のご本尊様も観音さまということを考えると、奈良長谷寺とのご縁を感じずにはいられません。
そして、時代はずっと下り、1278年。
北条時宗がこの地で鷹狩りを催した際、疫病にかかり、夢枕に地蔵菩薩が現れ、
「貴公の命日数ならず、この丸薬を服用せば、立ち所に病魔退散す」
とのお告げがあり、その後、時宗の病も全快をしたことから、飛騨の工匠を召して、七堂伽藍を造営させ、寺が建立されたと伝えられます。
法海禅師を住職、その師の南宋の仏海禅師(石渓心月(しっけいしんがつ))を開山とし、当時の鎌倉幕府の執権、北条時宗、もしくは時宗の父である北条時頼により開創されたと言われています。
正福寺地蔵堂は、1933年からの復原解体工事の際に発見された尾垂木尻持送りの墨書銘から、
創建当時から建立されていたわけではなく、室町時代の1407年の建立であると推定されるようになったとのことです。
正福寺地蔵堂は、1407年の建立以来、600年以上、その姿を創建当時のままのこしているお堂ですが、地蔵堂以外の建物や創建当時の資料は1662年の火災で失われ、どのような伽藍だったのか、今は知る由もないのは、残念でなりません。
ちなみに、東京都内で正福寺に次いで、古い建造物とされているのは、目黒の天台宗円融寺の釈迦堂だそう。
こちらも、旧国宝、現在は重要文化財に指定されています。
正福寺地蔵堂は、先に述べたとおり、約600年以上も前、室町時代のお堂。
和様とは異なり、屋根の強いそりや木々の丸柱、花頭窓など、禅宗建築の特徴を現しています。
禅宗建築は鎌倉時代、禅宗と共に中国から伝わった建築様式で、当時はモダンな様式であったことから唐様と呼ばれ、
それまでの伝統様式である和様とは区別されました。
上層屋根は入母屋造の杮葺き(こけらぶき)で、下層屋根は板葺だそう。
実は、昭和二年に正福寺地蔵堂が発見された際は現在の杮葺きの屋根ではなく、茅葺(かやぶき)屋根だったそうです。
内部に入ると、弓欄間から差し込む柔らかな光がお地蔵様たちを照らしています。
上を見上げると、尾垂木と呼ばれる斜め材や扇垂木が重なり合う姿を確認することができます。
弓欄間から差し込む柔らかな光
国宝 正福寺地蔵堂 鏡天井
このような正福寺地蔵堂と同様の様式で同時期に作られた禅宗様建築は全国にもいくつか現存します。
江戸時代に作られた「千体地蔵菩薩略縁記」には「当寺仏殿の如くなる堂は鎌倉円覚寺舎利殿濃州虎渓山の外更になし」と記述があるそうです。
「濃州虎渓山」は、多治見の永保寺のことで、鎌倉の円覚寺舎利殿とともに国宝に認定されています。
円覚寺舎利殿は、正月の三日間など、年に数日しか公開されていませんが、内部は仏舎利をおまつりする宮殿が安置され、その前に、鎌倉彫の須弥壇があるそうです。そこには、観音菩薩さまと地蔵菩薩さまが祀られているとのことで、ここでも観音さまとお地蔵さまが登場するところから、正福寺とのご縁を感じずにはいられないのです。
ちなみに円覚寺の舎利殿は、鎌倉時代の建築と考えられていましたが、後年の研究により、室町時代中期建築と推定される大平寺(現在は廃寺)の仏殿を移築したものだったことから、
正福寺地蔵堂の方が若干早い建立とみられています。
正福寺地蔵堂も普段は公開されておりませんが、8月8日、9月24日、11月3日の3日間、ご開帳されて内部を見ることができます。
地蔵堂に祀られているお地蔵さんこと、地蔵菩薩さまは日本全国、どこにでもいらっしゃる、私たちに一番身近な仏さまなのではないでしょうか。
全国の寺社に、道端に石造として、村の入り口に、至る所に私たちをお守りくださっています。
地蔵菩薩さまは、頭は髪を残さず丸く剃った形、声聞形や、比丘形の様相をしております。
着衣しているのは、袈裟と衣で、僧侶と同じ格好をされており、左手に宝珠、右手は与願印、もしくは錫杖を持たれています。
地蔵の名は、「地」は万物を生ぜしめるものであって、種子をまけば生長し、
葉、花、実を作り出すように地は偉大な功力を蔵していることと同じように、
すべての衆生を救済する偉大な功力を蔵する菩薩であることから名づけられました。
地蔵菩薩さまは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道に姿を現し、六道で苦しむ衆生を救済することを発願しています。
観音菩薩さまも現世利益を目的とし、私たち衆生を救済くださる仏さまとして知られておりますが、地蔵菩薩さまは、現世だけでなく、過去に死去した人の罪障を救済し、解脱へと導く菩薩として信仰されています。
今は亡き、愛児が三途の河で迷わぬよう導く仏さまとして、地獄に堕ちた人々を救う仏さまとして、各時代に大いに信仰された仏さまなのです。
比丘象にあらわされていることから、人間と遠く離れた存在とは考えず、我々と同じ苦しみを感じてくださる仏さまとして、親しみを感じずにはいられないのです。
地蔵菩薩立像の石仏
六道の衆生を救う六地蔵さま
千体地蔵という信仰は、平安の藤原時代の中ごろから末世思想に刺激され、京都を中心に本尊に合わせて千体の小さな地蔵菩薩立像が並べられているお堂が所々に現れました。
大原の寂光院(2000年に焼失)、栂尾高山寺などの千体地蔵の外に、一万体、六万体、十万体の摺仏(すりぼとけ)をつくり、多量に造仏することが無限の功徳を呼ぶものと考え、日本全国に多産的な造像の実例が数多くあります。
かの、有名な京都の蓮華王院三十三間堂もこの、単独の観音菩薩さまの尊像を数多く集合させ、一千体の群像として祀り、功徳を数量で現した信仰形態の一つです。
一方、正福寺の千体地蔵の信仰は、この無限の功徳による信仰と少し異なった起源があるとされています。
正福寺の千体地蔵は、頭頂から台座を含む全身一材から掘り出した一木造り、彫眼の像で、像の高さはおおよそ15センチから30センチ。
素材の特徴は金箔を押した漆箔の像、黒、もしくは黒漆の像、彩色を施さない素地の像、形状は地蔵の手の形も衣の中で拱手しているもの、鉢をもつもの、錫杖をもつもの、宝珠を持つもの、与願印を結ぶもの、合掌するものなど、素材、形状から分類すると16種類に大別されます。
千体地蔵尊像には、江戸時代中期から後期、1714年~1840の年月が墨書で刻まれており、これらは、奉納された年次を示すものと考えられています。
現在の総数は892体とされていますが、昭和8年の解体修理の際の調査によると1300体ほどだったとされています。
一方、昭和46年の調査では、855体とその他の小仏像40体と報告されており、おおよそ400体の差を生んでいます。
この差が生じている謎は、正福寺ならではの千体地蔵に対する人々の信仰のあり様が原因と考えられています。
正福寺の千体地蔵は、「病気になった時、本尊の地蔵尊を借りて行き、癒るとそれを返す時に小地蔵尊を奉納したものが沢山になり千体地蔵となった」という伝承があります。
祈祷する人がそのうちの一体を借りて家に持ち帰り、成就すれば、別の一体を添えて謝恩奉納するといったことを繰り返すうちに、そのまま持ち去られてしまい、計測数時期によって増減を生んでいるのです。
このように、平安時代中後期に生まれた菩薩の功徳を数量で表した千体地蔵信仰とは異なり、正福寺地蔵堂の千体地蔵は、衆生の無数の願いを叶えるために奉納された地蔵が集結し生まれた地蔵群なのです。
現在では、千体小地蔵尊像の保護を第一の目的に、本尊に先行して市有形民俗文化財に指定されることとなったそうです。
なお、地蔵堂内には、1970年代に奉納された文化財未指定の小地蔵尊像約500体も安置されているそう。
ちなみに、全国でも千体地蔵信仰の形態は様々で、京都清水寺の境内にある千体地蔵は、京都市内に多数あるお地蔵さんを中心とした石仏を、廃仏毀釈の際に捨てるに忍びないとお寺に運び込まれたものだそうです。
衆生に根差したお地蔵さんの信仰だからこそ、全国の千体地蔵が生まれた理由を探ってみると、その土地その土地の違った理由があるのかもしれませんね。
本尊の木造延命地蔵菩薩立像は像高128.5センチメートル。納衣に輪袈裟を着て、左手は肘を曲げて宝珠を捧げ、右手に錫杖を持つ。
足先を開き、蓮台上に直立する姿勢です。
ヒノキ材による寄木造り、玉眼をはめ込み、全身金泥塗りの仏像です。
この本尊、創建時の鎌倉時代からの作との説もあるそうですが、実際は江戸時代初期~中期の作とみられているそうです。
というのも、正式な記録はないものの、檀家の間では「すり替えられたらしい」ということが言い伝えられているそう。
実際に、仏像の作風は、全体的に勢いある鎌倉時代の作風とは言い難いものがあるとのこと。
「病気になった時に本尊を借りていき、癒えると返す時に小地蔵尊を奉納した」という正福寺の言い伝えより、その間に、仏像のすり替えが起きたのではないかと考えられているようです。
現在では、ご本尊の制作年代については、鎌倉時代説、江戸時代説、どちらも並立して存在しているとのことです。
ご本尊を信仰する人々にとっては、制作年代そのものよりも、古来より信仰してきたお地蔵さまが、今も庶民を見守り続けてくださっているという事実のほうが、大切なことなのかもしれません。
11月3日、文化の日に行われる地蔵まつりには、多くのボランティアの人が集まり、この正福寺地蔵堂のお祭りを支えてらっしゃいます。
かわいらしい正福寺開運厄除け千体地蔵餅や国宝の地蔵堂の木型をした背に、合掌したお地蔵さまが重なる「重ね地蔵守り」も販売されていて、お地蔵さまが東村山の地の一つのシンボルになっているということが伺えるのではないでしょうか。
正福寺開運厄除け千体地蔵餅
正福寺重ね地蔵守り
その他、正福寺では、十三佛信仰に基づいた、石仏群も見どころの一つです。
十三仏とは、十王思想を発展させ、亡き人の追善供養の仏とし、人々の間に流布し、浸透している日本独自の信仰です。
亡き人は、初七日から三十三回忌に至る間に審判され、それぞれの仏さまが追善供養を担当してくださると考えられています。
<それぞれ担当の仏さま>
初七日(しょなぬか) 不動明王
二七日(ふたなぬか) 釈迦如来
三七日(みなぬか) 文殊菩薩
四七日(よなぬか) 普賢菩薩
五七日(いつなぬか) 地蔵菩薩
六七日(むなぬか) 弥勒菩薩
七七日(満中陰) 薬師如来
百ヵ日 観世音菩薩
一周忌 勢至菩薩
三回忌 阿弥陀如来
七回忌 阿閦(あしゅく)如来
十三回忌 大日如来
三十三回忌 虚空菩薩
また、正福寺のご本尊さまが観音さまということもあり、観音様の石仏はいつでも拝むことができます。
年に3日間しか、地蔵菩薩さまのご開帳はありませんが、見どころはたくさん。
静けさの中、正福寺へお参りに行くのもよいかもしれませんね。