高徳院といわれても、どこのお寺かさっぱりな方が多いと思います。
一方、鎌倉の大仏さまのあるお寺というと、訪れたことがない方でも、大方、「ああ、あのお寺か」と検討がつく方がほとんどなのではないでしょうか。
正式名称、大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)は、古都、鎌倉、長谷の地にある浄土宗のお寺です。
あれだけ大きな大仏があり、古くから人々に見守られてきているお寺にも関わらず、開基、開祖などはよくわかっていないそうです。
大仏については、1238年には木造の大仏がつくられたことが吾妻鏡に記されていますが、その9年後には台風によって、木造大仏が倒壊してしまいます。
1252年には、現在の青銅の仏像がつくられ、大仏殿に安置されました。
あれ?大仏殿なんてないじゃないの???大仏は屋外に野ざらしじゃないの?
とお思いの方もいらっしゃるので説明しますと、大仏がつくられた当初は、大仏を安置する大仏殿もあったといいます。
しかし、その大仏殿は1335年、1369年に大風で倒壊、さらに、1495年におこった鎌倉大地震と大津波で被害を受けて、建物が倒れたことを最後に、大仏は野ざらし状態となったままだそうです。
誰もが知る鎌倉の大仏様、その涼しげなお顔からは察することは難しいほど、数多くの受難を重ねられていらっしゃる仏さまなのです。
西日に照らされると、ほほの辺りに金色の跡を見ることができます。
そんな大仏さまは、高さ約13メートル、総重量122トン、の青銅製の国宝、阿弥陀如来さま。
阿弥陀如来さまは西方極楽浄土で説法をする仏さまといわれます。
平安時代の頃より、臨終の際に阿弥陀さまが来迎し、極楽浄土へ魂をお導きされるように願う、阿弥陀信仰が非常に流行しました。特に、阿弥陀さまを中尊とし、両脇に観音菩薩さまと勢至菩薩さまを従えた阿弥陀三尊来迎像はこのころから多く制作されるようになりました。
この阿弥陀様は、国の発願によってつくられた仏さまではなく、民衆から集められたお金でつくられたを仏さまといいますが、それだけ、鎌倉の民衆の中で、この極楽浄土への信仰、阿弥陀様への信仰が強かったのかが伺うことができますね。
大仏前に置かれた大香炉は、阿弥陀さまの脇侍(きょうじ)の観音菩薩さま(左)と勢至菩薩さま(右)
初夏、生い茂る緑と青い空、そしてそこに大仏を重ねると、ふと口ずさむ歌があります。
「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
と、与謝野晶子が読んだ歌です。
与謝野晶子は大仏を見て、美しいお顔立ちから「男」を感じ、自ら発する熱っぽさを感じたのでしょう。
その熱さが大仏への思いからなのか、それとも、夏の暑さからなのか、自分でもわからなくなってしまったのではないでしょうか。
与謝野晶子が読んだ句碑は、大仏殿の裏手にたてられています。
お時間が許す方は、是非、与謝野晶子の気持ちと重ね合わせてみるのも良いかもしれませんね。
句碑になる程、有名な歌なのですが、実は与謝野晶子は大きな間違いをおかしているのです。
句の中で出てくる仏さまは、「阿弥陀如来」ではなく、「釈迦牟尼」なのです。
鎌倉大仏は、西方極楽浄土の仏さま、阿弥陀如来さま。
一方、与謝野晶子が句の中に取り上げているのは、2500年前、古代インドに生まれ、人々に教えを広めまわった釈迦牟尼なのです。
与謝野晶子ほどの知識人が間違いをおかしたのには、おそらく、無知からではなく、句の美しさ、そして、大仏への素直な気持ちを伝えたかったのではないでしょうか。
与謝野晶子の 「みほとけや~」の石碑は「株式会社味の素」の寄進によるもの。
「大仏様」というと、鎌倉の大仏の他に、奈良の大仏様を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
同じ「大仏」でも、実は、鎌倉の大仏さまと奈良の大仏さま、似て非なるものなのです。
鎌倉の大仏さまは、何度か、ご案内した通り、西方極楽浄土の仏さま、阿弥陀如来さま。
一方、奈良の大仏さまは、盧遮那仏。こちらも国宝です。
盧遮那仏は華厳経における最高の尊格の仏で、釈迦牟尼をも包み込む、宇宙的な真理をあらわす仏さまと言われています。
奈良の大仏さまの前では、生きる真理を見つめ、
鎌倉の大仏さまの前では、故人の西方極楽浄土への往生を願う、
そうやって、やってこられた方々を静かで涼しげなお顔で、大きなお心で見守りくださっている大きな仏さま、それが大仏さまなのです。
盧舎那仏(るしゃなぶつ)として有名な奈良の大仏さま
阿弥陀如来さまの鎌倉の大仏さま